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嘉麻の里
2005年6月号 『戦勝百年 「陸」』
 前回、日露戦争戦勝百年にあたり、日本海海戦勝利の背景、意義を書きましたが、今回は陸戦の方について書いてみます。
 ロシアは大陸軍国でしたから、日本は海戦では引き分けくらいにはなる可能性は予想されていましたが、陸戦の方は全く勝ち目がないと思われていました。ナポレオンを追い返し、モルトケをして戦争回避を余儀なくさせる程の精強さを誇ったコサック騎兵の攻撃にあっては、日本はひとたまりもないと思われていたんでしょう。
 当時の日本陸軍において、ロシアのコサック騎兵を迎撃する役目は秋山好古将軍でした。日本海海戦で東郷元帥の連合艦隊にて参謀長を務めた秋山真之の兄にあたる人です。秋山好古はフランス留学経験者で、日本陸軍において騎兵だけはドイツ式でなくフランス式を採用させたほどの人でもありますが、彼が出した結論は極めて明解でした。「日本騎兵はコサック騎兵に勝ち目はない」というものです。日本の歴史を振り返ってみても江戸時代300年間、日本では騎兵で戦争をしたことはありません。従って、馬の改良もなされていませんでした。それに対しヨーロッパでは、馬は騎兵として戦争で使うために改良され続けており、アメリカもカウボーイの歴史ですから、馬は大切なものだったと思われます。
  こういう悪条件下で秋山好古が発案した対抗策が、コサック騎兵が来たら日本は正面から戦う事を止め、騎兵隊員は全員馬から降りて機関銃でコサック兵を撃つという案であります。機関銃は普仏戦争(プロシア;今のドイツとフランスとの戦争)の前にフランスで発明されましたが、手動式であまり役に立たなかったそうです。その後、アメリカ人のマキシムが1880年代に自動式の機関銃とそれに合った火薬を発明しています。また、同じくアメリカ人の兵器発明家だったホチキスも機関銃を開発し、フランス陸軍に正式採用もされていました。秋山好古は長くフランスに留学していましたから、機関銃の存在を知っていたでしょうし、また織田信長と武田信玄の姉川の合戦で武田の騎馬軍団が織田の鉄砲隊に負けた歴史も知っていたと想像されます。
 機関銃は当時の先端兵器で、日露戦争当時有効に使えたのは、旅順の要塞を守っていたロシア軍以外では秋山好古だけでした。コサック騎兵は満州の平原に広がった日本陸軍を分断しようとする。その役割からいって隊長が真っ先に突進してくるのを、日本騎兵は馬から降りて機関銃で撃ったんです。
 今考えたら誰でも気付く戦法かも知れません。しかしこの発想がなければ、戦線の延び切っていた日本陸軍は総崩れになっていたことは確実です。
 日露戦争が終わり、技術分析がなされた結果、列強の軍隊からは「陸軍の花」と言われた騎兵は姿を消しています。替わって機関銃の掃射に耐え、且つ機動力のある戦車が、第一次大戦以降登場してくることになったんです。列強の中で最も遅れて騎兵隊を導入した日本陸軍が、騎兵の時代を終わらせたのが歴史です。
 日本が世界の三大強国と言われたロシアに勝ったのを見て、他のアジアの国々に「俺たちもやれるかもしれない」と思わせたことは確実です。インドは最古の文明の一つを持った国でしたが、武器や機械を作れるとは考えず、イギリスの植民地になっていましたが、ガンジーやネールによって民族運動が始まりました。清朝(中華民国)も科挙制度を止めて、日本への留学を行うようになります。孫文や介石をはじめ、清朝にあって近代化を目指した活動家の多くが日本に学んだのも、有色人種でも近代国家が作れる可能性を確信できたからです。
 もし日本がロシアに負けていたら、日本はロシアの植民地になっていたと思われますし、その時期、インドや清朝においても、近代化運動が起こっていたかは計りかねます。
  以上2回にわたって日露戦争戦勝百年についての異論を述べてみました。
 各々の国家にとって、歴史は大切なものです。胸を張って誇れる歴史を持った国に生まれたことに、我々は祖先に感謝するべきです。負けた戦争をいつまでも引きずっていては、ご先祖様に申し訳がないと思われませんか。これからの日本を荷負う皆様のご家族、子供や孫に、日本の歴史を誇らしげに語る義務と責任は、皆さんにあるんだと存じます。


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