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嘉麻の里
2008年2月号 上手な政治と正しい政治
   この表現が果たして正しいか否かは分かりませんが、歴史を振り返ると日本には政治上、二つの流れが存在していたように私は思っているんです。
 例えば隣の大国「隋」(今の中国)に対し、「日出(い)ずる国の天子」として文書をしたためた聖徳太子。大化の改新より前の7世紀初めのころの話です。日本は中国への「朝貢外交」を排し、自主独立の国家としての立場を明快にしています。つまり日本は中国の属国ではないという意思表示を明らかにした「正しい政治」の方向性を示しています。
 また13世紀後半、隣国「元」(現在のモンゴル)が大挙襲来した、いわゆる元寇(文永の役、弘安の役)が起こると、武士である北条政権のもと、国民が一丸となって元軍約14万と戦って日本を防衛したのも「正しい政治」と考えられます。
 下って幕末、徳川政権による幕藩体制では欧米列強によるアジア植民地化政策に対抗できないとして、大政奉還を行い、明治天皇の下「富国強兵」策を断行したのも正しい政治だったと存じます。
 上手な政治の例は、後醍醐天皇の後の足利幕府が好例ではないでしょうか。国益より私益の配分を優先させて守護大名に領国内の荘園支配の権利を与え、足利政権の基盤を守ろうとしたんです。しかしそこには国益を守るとか国体護持などという「大義」はありません。一定の氏族の守護職が固定化し、国人・土地などを支配するといった現状に対応する一種の対処療法的な「上手な政治」ではありましたが、国民の気持ちというか、精神を堕落・崩壊させた政治でもありました。その後は将軍の権威の失墜とともに守護大名も失墜し、戦国時代に突入してゆくわけですから。
 「上手な政治」は大東亜戦争後の日本を見ても主流を占めたのではないでしょうか。よく戦後レジームの脱却とか、55年体制とかいわれます。「戦後レジーム」の定義がよく分からないんですが、私に言わせれば「新憲法と日米安保の矛盾を飲み込み、国体護持(皇室の存続)と経済復興に専念する」ということだと存じます。占領下で先ずは経済の繁栄を求め、朝鮮戦争勃発後も軽軍備での経済成長路線に専念した(別名:吉田ドクトリン)のはその例ですし、その行き着いた極地は高度経済成長期の田中角栄政治だと思います。
 足利幕府を真似したわけじゃないんでしょうが「利権分配体制」を確立し「上手な政治」をしたことは確かです。但し足利時代同様、日本人のモラルを著しく低下させたことも確かです。私は明治維新の志士は「自主独立」とか福沢諭吉の「独立自尊」、つまり国家の独立と個人の自由を支えるものはモラル、道徳、倫理の再生であると確信していたんだと思います。例えば公権力というものは公益のために使われなければならない。決して私益のために用いてはならないという意思、意識が強くあったんだと確信します。
 つまり「正しい政治」を実行したんです。従って清国やロシアとの戦争という近代日本の行く末を決定した大きな戦いに勇気持って戦い、世界の中における日本の地位を確立する大きな偉業を遂行するに際しては、堂々と立ち向かう気概を持ち続けたんだと思っています。「正しい政治」を国民と共に実行している確信があったからじゃないでしょうか。
 敗戦後の日本は世界の冷戦構造にも助けられ、アメリカの庇護のもとで最小限度の武器と日米安保条約に頼って、経済復興に専心し、結果として世界第2の経済大国にのし上がることに成功しています。「上手な政治」だったと思いますねぇ。しかし冷戦構造が崩壊してはや20年近くが経ち、日本の周辺情勢も大きく変わりました。日本向けに核弾道つきミサイルを発射すると広言し、事実核実験をやったという隣国が出てきております。
 我々には日本をこれまでどおり自主独立国家として存続させ続けるという強い覚悟が要るのではありませんか。国連が急場の助けにならないことは、昨今のアフリカその他の紛争国家の現状から見ても明らかです。そのためには「正しい政治」が出てくる時が来ている、つまり「正しい政治」を「上手に実行する政治」が求められていると思い、政治家として一層の邁進を心がけていく決意です。


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